臼杵市【うすきし】

臼杵市は、大分県の東南部に位置し、豊予海峡方面へ楕円状に細長く延びた地形となっています。東は豊後水道に面した臼杵湾に臨み、南西部は鎮南山・姫岳など比較的険しい山稜が津久見市、佐伯市と接しています。河川は、野津川が南西部を東西に流れ、臼杵川・末広川・熊崎川が臼杵湾に注ぎ、これらの河川沿いには水田が、野津地域の北側には畑地が広がっています。 気象は、瀬戸内海型と南海型が混在し、年間平均気温は15〜17度、平均降水量は1,500〜1,800ミリメートルで、温暖多雨の自然環境に恵まれています。
臼杵市はここに位置します


■臼杵石仏【国宝】


■古園石仏(ふるぞのせきぶつ)


 古園石仏は、大日如来像を中心とする曼荼羅を構成し
整然として、陣容をそなえる、臼杵石仏の中心的存在。
通称古園十三仏とも、大日山石仏とも言われています。
特に中尊の大日如来は日本の石仏の中でも
最高傑作の一つといえます。高く秀でた眉、
切れ長の伏し目に端正な顔、ほのかに紅を刷いた
唇にあたたかい御心が通う。きわめて端厳な相好ですが、
ゆたかな両頬や、ややとがった二十頤、切れ長の
伏し目など幽玄で神秘的な雰囲気がただよいます。
制作年代は、平安後期を下らないと言われています。
崩壊破損が甚だしかったのですが、修復工事(S33〜)
により平成5年8月25日には中尊大日如来の
仏頭が復位され、昔日の荘厳な姿に復旧しました。

                       

■臼杵城【城跡】


臼杵城は九州の雄・大友宗麟の居城として
長らく栄えた九州を代表する、城の一つに数えられる。
 永禄5年に府内の府内城から移動しこの地を本拠と
構え築城、当時、丹生島と呼ばれる場所に築城したので
周りが海に囲まれた海城として難攻不落の城であった。
 当時、大友家は九州の覇権をかけて薩摩・島津家と
戦が絶えなかったが、「国崩」と呼ばれる大砲を使い
撃破していたが、天正6年に日向耳川の合戦で
島津家に大敗北を喫してしまい、力が急速に衰えていく。
そして天正14年に臼杵城も落城してしまう。
 宗麟死後、息子の義統は豊臣秀吉の九州平定に
従い豊後を安堵されたが、文禄の役での
失態から除封されてしまう。
 臼杵城はその後、福原直高・太田一吉と城主を変え,
関ヶ原の合戦後に稲葉家が入封し31の櫓が立ち並ぶ
近世城郭に整備し以後稲葉家の
居城として明治時代を向かえた。

現在臼杵城跡は、石垣や堀・櫓などが残されています。
海城で有名な城跡ですが今は町中に有り、
本丸跡から臼杵湾を見渡せれるようになっています。
二の丸跡地には公園化されており稲荷神社も
建てられていますが、豊後1の城と言われていた通り、
雄大な城跡を残しています。大友宗麟が島津家に
負けなければもしかしたら九州一の都市は
臼杵市だったのかも…


   

■二王座【歴史の道】


二王座は、武家屋敷が立ち並び、
多くの寺が集まっている
地域で、昔日の名残を今もとどめています。
石畳と石垣に
調和のとれた建物が、
静かな魅力を醸し出しています。
1993年(平成5年)に国の都市景観100選に
選ばれています。二王座は、
徳川3代目将軍家光公の
乳母になる春日局が
一時居住したところでもあります。


■うすき竹宵


「うすき竹宵」とは
 大分県臼杵市にて開催される
イベントで、
臼杵の情緒漂う町並みに
約2万本の
竹ぼんぼりと壮大な竹の
オブジェが町を彩ります。

     
■臼杵祇園様


 『臼杵祇園まつり』が臼杵市の八坂神社にて
総勢
2000人にも及ぶ参加者がいます。
 臼杵祇園まつりは、日田祇園祭、中津祇園
と並んで大分県三大祇園祭の一つで、
今から約四百年前の慶長16年(1611年)から
続いている伝統あるまつりです。祇園祭のハイライトは、
初日の渡御(おわたり)と最終日の還御(おかえり)で、
「御槍振り
50本」を先頭に「吹流し100本」
「3体の神輿」「
2台の山車」
などが列を連ねて練り歩く姿は、
城下町臼杵にふさわしく歴史と壮観さを
感じさせてくれます。